真言宗の教え

弘法大師

真言宗は、弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)(774~835)によって開かれました。
その教えは、自分自身が本来持っている「仏心(ぶっしん)」を、「今このとき」に呼び起こす即身成仏(そくしんじょうぶつ)に求められます。それは、自分自身を深く見つめ、「仏のような心で」「仏のように語り」「仏のように行う」という生き方です。
この教えをもとに、人々がともに高めあっていくことで、理想の世界である密厳仏国土(みつごんぶっこくど)が実現します。

ご本尊

真言宗のご本尊は大日如来(だいにちにょらい) です。
大いなる智慧(ちえ)と慈悲(じひ)をもって、すべてのものを照らす根本の仏さまです。
また、仏教に多く存在する仏さますべてを、ひとつも否定することなく、それぞれを大切に考えます。
すべての仏さまは大日如来につながると考えます。
そのため真言宗寺院のご本尊はさまざまです。

お経

真言宗が拠り所とする経典は、『大日経(だいにちきょう)』『 金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』です。法要の中で唱えられる主なお経は『般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)』『般若心経』『観音経』などです。また「光明真言」に代表される真言や陀羅尼(だらに)を唱えます。
また経文に節をつけて唱えるお経 “声明(しょうみょう)”は広く知られており、お経のほかにも“ご詠歌(えいか)”・“和讃(わさん)”をお唱えすることがあります。

仏教の歴史

今からおよそ2500年前。お釈迦さまは4月8日(花まつり)、ヒマラヤ山脈の南のふもとルンビニーで誕生されました。お釈迦さまは、人間の「苦」(何事も思い通りにならないと知りながら、思い通りにしようと願うこと)を克服するために修行を重ね、35歳の12月8日(成道会じょうどうえ)悟りを開かれ、仏教は始まりました。80歳の2月15日(涅槃会ねはんえ)、お釈迦さまは完全な寂静(じゃくじょう)の境地・涅槃に入られました。お釈迦さまの説法集である経典、個人・教団の戒律集である律典が成立しました。ただしお釈迦さまの死後2~300年間は口伝えであり、紀元前1世紀頃にパーリ語で明文化されていきます。さらには教説の整理分類の必要から、研究書である論典が著されました。
 紀元前2世紀頃には、戒律の実践、物や心の考え方の相違をめぐって2派に分かれました。紀元前2世紀頃からその後200年にわたっては、20部派に分裂し、紀元前1世紀頃から大乗経典が登場することになります。この流れは教えの研究と論争、教団の分裂という学問仏教から、生きとし生ける人間を中心とした大衆仏教への展開でもあります。7世紀中期には、密教の根本経典である『大日経(だいにちきょう)』、『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』が成立するなど、八万四千(はちまんしせん)の法門といわれる仏典は、一千年に及ぶ期間において編纂され、大蔵経(だいぞうきょう)、一切経(いっさいきょう)としてまとめ上げられました。
 このようにインドに起こった仏教は、時代とともに、そして伝播の経路により、分派・変化してきました。西域(中央アジア)を経て、中国には前漢の哀帝(あいてい)代、紀元前2年(諸説あり)に、朝鮮には高句麗(こうくり)に370年代に伝来し、日本へは欽明天皇代の538年(552年説あり)が仏教公伝(百済くだら)の聖明王(せいめいおう)が使者を遣わし仏像、仏具、経巻を送ったという伝来)といわれています。
 その後、聖徳太子が仏教の理想に基づく統一国家の建設を目指し、法隆寺を建立しました(飛鳥文化)。また、奈良時代には唐の都・長安にならい、律令国家にふさわしい平城京を造営。聖武天皇は東大寺建立、国分寺を建立するなど、天平文化の花が開き、桓武天皇による平安遷都、そして弘法大師空海の時代となっていきます。

真言宗の歴史

奈良仏教は、南都六宗( 法相宗(ほっそうしゅう)、三論宗(さんろんしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)、倶舎宗(くしゃしゅう)、律宗(りっしゅう)、華厳宗(けごんしゅう) )と呼ばれる学問仏教、学派というべきものでした。律令体制の中、寺院は官寺(かんじ)で、僧尼は官吏(かんり)(国家公務員)の様に僧尼令(そうにりょう)によって統制されました。そして、鎮護国家(ちんごこっか)の為の仏教、いわゆる国家仏教というものでした。僧侶たちも仏教の教えによって人々を救うというより、難解な理論研究を中心としていました。
 しかし、やがて人々のために生きようとする僧侶たちが、山林に苦修練行(くしゅれんぎょう)して自らを磨き、人々のための仏教が新たに生まれてきます。平安遷都にともない新しい国づくりを目指す日本では、その原動力となるような、生命力に満ちあふれた新しい教えの出現が求められていました。このような時代的・社会的な課題をふまえて、真言宗は開かれたのです。
 こうした背景の中で、弘法大師は人生の「苦」を乗り越える仏教を求め、唐の国(中国)へ留学します。その都・長安(今の陝西省(せんせいしょう)の西安)の青龍寺(しょうりゅうじ)で、インド以来の密教の正統を伝える第一人者、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)にめぐり合いました。
 そして、その教えを始め、経典類、儀礼に関する書や法具など、あますところなく継承します。つまり、密教の正統な伝承者(付法(ふほう)、伝持(でんじ)の第八祖)となって、最新の知識や見聞をも身につけて帰国されました。
 その後、密教の教えを組織的に体系化して、時代に即応する真言宗を開宗されたのです。

豊山派の歴史

弘法大師によって開かれた真言宗は、東寺(とうじ)、高野山(こうやさん)中心に広められます。その後、平安の末期に興教大師(こうぎょうだいし)覚鑁上人(かくばんしょうにん)によってさらに新しい力が吹き込まれると、紀州に根来寺(ねごろじ)が創建されました。
 鎌倉時代になり、頼瑜僧正(らいゆそうじょう)によって新義真言の教えが成立しました。宗団は根来寺を中心に栄えましたが、戦国時代の戦渦により、専誉僧正(せんよそうじょう)をはじめ多くの僧侶が根来寺を離れることになりました。
 その後、豊臣秀長公によって奈良の長谷寺(はせでら)に招かれた専誉僧正は豊山派をおこし、長谷寺は学山として栄えました。豊山派の派名は長谷寺の山号「豊山(ぶさん)」に由来します。江戸時代、五代将軍 徳川綱吉(とくがわつなよし)公の生母である 桂昌院(けいしょういん)が音羽(現文京区)に護国寺を建立し、豊山派の江戸の拠点として末寺を増やしました。
 現在は、全国に3,000カ寺、僧侶数5,000人、檀信徒数200万人をほこる、真言宗有数の宗団となっています。